2013/02
東京女医学校の創設者 吉岡弥生君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 4]
生誕の地、掛川市の吉岡弥生記念館


縁の地を訪ねる
 ◆掛川市の記念館では弥生の生涯を、医師を目指して済生学舎で学び、吉岡荒太と結婚するまでの「志」のステージ、東京女医学校を設立して医学専門学校に昇格させるまでの「翔」のステージ、戦後、東京女子医科大学を開学して広く婦人の地位向上に奔走する「愛」のステージに分けてダイナミックに展示されている。記念館の奥には生家の長屋門と家屋が移築されて公開されている。記念館の前は今も田畑が広がっている。

 ◆弥生の碑は東京に 2か所ある。
 JR飯田橋駅東口を出て九段下の方へ歩くと文京区が建てた「飯田橋散歩道」の史跡表示が沢山並んでいる。
 駅の近くに「東京農業大学開校の地」、「日本大学開校の地」、「國學院大學」などの表示があり、少し離れて「日本赤十字社跡」「東京女子医科大学発祥の地」の碑が建っている。
 説明書きを見ると「吉岡弥生は明治33年(1900年)12月 5日、この地にあった至誠医院のなかに東京女医学校を創立しました。翌34年 4月、同校は牛込区市谷仲之町に移転。後に市ヶ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡弥生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町四丁目三十一番地に移り、関東大震災までありました。」とある。

 ◆文京区河田町には東京女子医科大学がある。道路に面して大学校舎や病院が並んでおり、本館前の中庭に創始者の吉岡弥生と夫君吉岡荒太の座像がある。本館 2階に吉岡弥生記念室があり、訪れたときには卒業生で初めて母校の教授となった医化学者・戸田邦仁の企画展が行われていた。

医者の家に生まれる
 吉岡弥生は明治 4年に遠州国城東郡上土方村で生まれた。土方村は現在の静岡県掛川市で、その頃は旧東海道掛川宿から海岸方向へ、二つ峠を越えて二里半(約 6km)の片田舎であった。父・鷲山養斎は漢方医の江塚家に生まれたが鷲山家の婿養子となり、東京に出て西洋医学を学んだ、村で人気の医者であった。
 鷲山弥生は姉と二人の兄、妹が 6人の大家族であった。明治 9年に近くの小学校に入学したが、生徒は50人ほどで女子は 2人のみ。その女の子もやがて辞めてしまい、女子は弥生一人となった。当時の小学校は上等 4年下等4年の 8年制で、義務教育は 3年であったようだ。弥生は明治17年、14才で小学校を卒業した。


医師を志す
 この片田舎から如何にして女医が誕生したのかは興味が湧く。
 背景の第 1は、村で新聞があるのは村役場と鷲山本家、鷲山医院だけで、明治の新しい息吹を身近に感じ取っていたこと。第 2は二人の兄が東京へ出て医学の勉強をしていたこと。第 3は本人の話によれば、父から何事にも積極的な性格を貰い、母から頑健な体を貰ったのだという。
 子供の頃から政談演説会を聞きに行くのが大好きで、女ながらに偉くなりたいと思っていたようだ。東京へ出て勉強したいと言って父親から、「女の子は嫁に行くのが良い」と反対されたものの、家族会議で 2年間の制限付きとして、漸く父の承諾を得た。最初は医者になろうとは考えていなかったが、当時女子の入れる学校は高等師範の女子部だけで、小学校しか出ていない彼女には入学資格がなかった。そこで父や兄たちに倣って医師の道を歩むことに決めた。
 東京湯島にある済生学舎は医術開業試験を目指す若者たちが学ぶ私立医学校で、元医科大学教授の長谷川泰によって設立された。男子学校であったが、荻野吟子に続いて医者を目指す高橋瑞子らの努力により、女子にも門戸が開放されている唯一つの学校で、入学試験はなく誰でも入学できた。弥生の二人の兄もこの学校で学んでいた。
 医術開業の前期試験を目指す学生が約350人、後期試験を目指す学生が約250人いたが、女子は20人足らずで、男子学生たちの“いじめ”や悪戯、差別と闘いながら必死で勉強した。入学したのが明治22年、19歳の時で、1年後に前期試験に合格した。入学前に家にある本を手当たり次第勉強したというが、小学校に学んだだけで、物理・化学・解剖・生理の前期試験を突破したのには驚くばかりだ。女子は16人受験して合格者は 4名であった。
 後期試験は産婦人科・内科・外科・眼科・病理の 5科目で、一度は失敗したものの明治25年に見事合格した。22歳の女医誕生で、27番目の女医である。
 暫く順天堂医院で実地研修をして故郷へ戻り、鷲山医院の分院で医師としての活動を始めた。田舎での医師は専門など言っておられず、内科・外科・産婦人科から耳鼻咽喉科、更には歯の治療までやらねばならず、病気の全てを治療するので非常に良い勉強になった。


東京女医学校開校
 弥生には更に大きな夢と希望があった。医学を更に学ぶためにドイツに留学したい、そのためには先ずドイツ語を習わねばならないと、本郷元町の私立至誠学院に入学した。人間的教養を身に着けるため跡見女学校選科にも入学した。ここで至誠学院の校長・吉岡荒太との運命的な出会いとなる。
 吉岡荒太は佐賀県東松浦郡の漁村の出身で、代々医者の家に生まれた。福岡の中学校で学び、東京に出て第一中等学校(旧制一高の前身)に入学して医師を目指していたが、病気のため残念ながら中途退学した。独学で医術開業試験の前期試験に合格したが、学費を稼ぐためドイツ語学校を設立。その後 2人の弟が上京してきたので、医師を断念して至誠学院経営に専念していた。
 明治28年に二人は結婚し、吉岡荒太は至誠学院を英語・数学も教える、更に大きな学校とした。弥生は学校の向かいに東京至誠医院を開業した。
 明治33年、弥生が学んだ済生学舎が女性の入学を拒否し、翌年には女子の在校生も追放する事件が起こった。理由は女子学生がいると風紀が乱れるからというが、本音は新しい医師国家試験に対応した専門学校に昇格させるための工作とも云われている。
 弥生はただちに反応して同じ年の暮れ、病院内の1室で女医養成の学校「東京女医学校」を開校する。この時のことについて後に、「学問も無ければ財産も無い、市井の一女医に過ぎない私が、学校をつくって女医の養成に当たろうとしたのは、冷静に考えたならばあるいは無謀に近かったかも知れません。血の気の多い私は使命感に燃えて立ち上げました」と語っている。
 その後の弥生は、東京女医学校の経営と東京至誠会病院での治療活動など、苦難と波乱の道を歩む。
 東京女医学校は生徒の増加と共に仲之町に移転、更に河田町へ移転して校舎の増設、講師陣の依頼、学校付属病院の設置などと、赤字経営が続く。さらに医術開業試験の廃止による新たな医師国家試験は、専門学校卒業生でなければ受験資格が無くなり、東京女医学校の専門学校昇格のために奔走する。ここでは学校経営の経験がある夫・吉岡荒太の支援が大きかった。
 東京女医学校は明治45年に専門学校に昇格し東京女子医学専門学校となり、大正 5年第 1回卒業生46名は医師国家試験に27名合格という好成績を挙げた。入学生は毎年 100名を超え、大正 9年には医師試験の無試験指定校になった。その後も関東大震災や太平洋戦争の空襲で被災するなど苦難の道が続いたが、我が国で唯一つの女子医科大学として素晴らしい発展を遂げている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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